今に通ずる阪急のルーツが凝縮された歌劇の街・宝塚において、王国の主・阪急宝塚駅より10年以上早く開業した、JR宝塚線(福知山線)の2面3線の地上駅で特急停車駅。
長らく単線・非電化ローカル線の駅であり、道向かいにある阪急宝塚駅には足元にも及ばない状況が続いたが、JR発足後の度重なる輸送改善により、利用客数で同駅を逆転し、宝塚市の代表駅の地位にまで上り詰める。
また、長らく阪急宝塚駅に見劣りしていた駅舎も、高級住宅街ひしめく宝塚にふさわしい橋上駅舎へとリニューアルされ、名実共に宝塚の代表駅にふさわしい風格へと大変貌を遂げた。
目次
外観・駅周辺
「歌劇の街」として全国的に有名な兵庫県宝塚市。その代表駅となる宝塚駅は、大通りを挟んで阪急とJRが対峙する壮大な構図となっている。
阪急・JR両宝塚駅はペデストリアンデッキで連絡しており、その下を通る国道176号線は、駅前の混雑を回避できるようにアンダーパスも設置されている。
JR宝塚駅側から阪急宝塚駅方向を望む。宝塚歌劇団擁する阪急の牙城として知られる宝塚駅だが、駅自体はJR宝塚駅の方が約10年余り早く開業している。
JR宝塚駅は、JR宝塚線(福知山線)の前身となる旧阪鶴鉄道が、1897年(明治30年)に開業させている。
阪急宝塚駅は1993年(平成5年)に高架化されたが、JR宝塚駅は、現在でも地上駅のままである。
しかし、駅舎は2010年(平成22年)に橋上化され、対峙する阪急宝塚駅に負けない立派なものに生まれ変わった。
そのJR宝塚駅の向かいに対峙する阪急宝塚駅。
阪急の前身・箕面有馬電気軌道が1910年(明治43年)に今に繋がる宝塚線の終着駅として開業させた、阪急のルーツとなっている駅である。
阪急のルーツとなる箕面有馬電気軌道を開業させたのは創業者・小林一三だが、実は氏を含む同鉄道設立メンバーの多くがこのJR宝塚駅を開業させた旧・阪鶴鉄道の幹部であったというのは、今となっては知られざるトリビアとなっている。
阪急とJRが向かい合う空間に整備されたバスターミナル。
阪急牙城のイメージが強い宝塚駅であるが、実は何と阪神バスが運行されているのも、当駅のちょっとしたトリビアである。
上の写真からさらに奥の西方向を望む。JR宝塚線(福知山線)の線路はこの先も三田・福知山方面にも伸びているが、阪急はここまでとなっている。
しかし、阪急も元々箕面有馬電気軌道の社名の通り、この先の有馬温泉方面までの延伸を目論んでいたが、六甲山系に阻まれて断念したのだ。
改札口・コンコース
2013年(平成25年)の駅舎橋上化により、閑静な高級住宅街ひしめく宝塚のイメージにふさわしい洗練されたコンコースに生まれ変わった。
改札出てすぐ南側には、阪急宝塚駅につながる連絡通路となっており、まさか乗り入れている阪神バスの乗り場への案内も掲示されている。
「エキナカ」ではあるが改札外に設置されている、JR西日本の駅ナカ施設「エキマルシェ」。
当駅にあるこのエキマルシェは2010年(平成22年)に開業した栄えある1号店で、高級住宅地である宝塚らしく、関西で有名な高級スーパー「パントリー」を展開する大近が入居している。
そして、コンコース脇にある「シンシア像」。
2002年(平成14年)に成立した「身体障害者補助犬法」のシンボル的存在となった介助犬で、70種類もの言葉を覚えて人間を介助する姿は多くの人に感動をもたらした。
阪急宝塚駅に遜色ない開放的かつ洗練された改札内コンコース。
長らく同駅の足元にも及ばない利用状況だったが、JR発足後の度重なる輸送改善の結果、1日の利用客数6万人を超える宝塚の代表駅の地位にまで上り詰めた。
その改札内コンコースからは、西方向の六甲山系の山並みの風景が堪能できる。
時刻表
JR宝塚線:三田・篠山口方面
1966年(昭和41年)に特急停車駅に昇格した当駅は、福知山・城崎温泉方面に向かう特急こうのとり号が毎時1本停車する。
通勤電車は、快速の半分が当駅止まりとなるため、篠山口行きの丹波路快速が毎時2本、新三田行きの普通が毎時4本の計毎時6本の運行体系となっている。
普通は、川西池田で快速の待ち合わせを行った後のため、終点新三田まで先着する。
JR宝塚線:大阪・尼崎・北新地方面
反対側の大阪方面行きの日中は、大阪行きの快速電車と、尼崎からJR京都線に入って高槻に向かう普通電車が毎時4本ずつ運行されている。
朝ラッシュ時は尼崎からJR東西線に入る運行が多数加わる。大阪・梅田への速達性で並走する阪急宝塚線を上回るため、ラッシュ時の本数は同線の倍近くになっている。
日中の普通は、2つ先の川西池田で後続の快速電車の待ち合わせを行う。
乗り場
ホームは旧国鉄の駅でよく見かける2面3線構造となっている。
JR宝塚線仕様の駅票。「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」が黄色のラインカラーに込められているとのこと。
1988年(昭和63年)より使用されたこの愛称は、度重なる輸送改善と共に、長らく後塵を拝していた阪急宝塚線への宣戦布告を意味していた。
【1番のりば】JR宝塚線:三田・篠山口方面
三田・福知山方面は単式の1番のりばが使用される。ライバル阪急宝塚駅が柵越しに見える。
最大8両編成の電車しか止まらないため、ホーム西側は使用されず進入禁止となっている。
阪急宝塚線より10年以上早く開業したJR宝塚線(当時:阪鶴鉄道)だが、長らく単線・非電化で阪急宝塚線には足元にも及ばず、宝塚から大阪方面は阪急を使うのが常識となっていたらしい。
1番のりばにやってきた321系の快速新三田行き。
朝ラッシュ時に運行されるJR東西線からの乗り入れ電車で、ホームドア設置路線であるJR東西線の性質上、快速でも4扉車で運行されている。
次にやってきたのは、289系の特急こうのとり号城崎温泉行き。しらさぎで運用していた683系2000番台を直流化改造した車両だ。
その次にやってきたのが、日中30分間隔で運行される223系丹波路快速・篠山口行き。
1986年(昭和61年)の当駅ー新三田駅複線化を皮切りに、福知山線の全線電化、そして1997年(平成9年)には篠山口駅までが複線化され、単線・非電化ローカル線だった同線は劇的な変貌を遂げた。
そして、先の丹波路快速の待ち合わせを川西池田駅で受けた207系普通新三田行き。
かつては三田方面の乗客もわざわざ当駅で下車して阪急電車に乗り換えていたのが、この輸送改善により大阪方面までそのままJRで行くようになった。
1番のりば東端からホーム方向を望む。
こうした輸送改善の結果、当駅の利用客数は増加の一途をたどり、今世紀に入ると1日6万人を超えるようになり、宝塚の代表駅の座を阪急宝塚駅から奪取することとなった。
そのホーム端から東の中山寺・尼崎方面を望む。線路は緩やかにカーブし、阪急宝塚線の高架をくぐっていく。
【2・3番のりば】JR宝塚線:大阪・尼崎・北新地方面
大阪方面行きは島式1面2線構造となっており、2番のりばからは当駅折り返しの電車が発着する。
ホーム西端から、生瀬・三田方向を望む。ここから線路は大きく北にカーブしていく。
現在は2面3線の構造だが、1981年(昭和56年)に当駅ー尼崎駅間が電化されるまでは、相対式2面2線に中線が1線入る構造のホームだったらしい。
折り返し用の2番のりばにやってきた207系電車。今は行先が「普通・宝塚」の表記になっているが、この後「快速・木津」に変わる。
尼崎からJR東西線を経由して、京橋より学研都市線(片町線)に入って同線の終点木津まで向かう、朝ラッシュ時に運行される快速電車だ。
日中時間帯に2番のりばから折り返すのは、当駅始発の快速大阪行き。写真の223系か225系の3扉クロスシート車で、短い4両編成で運行される。
今では1日6万人が利用するJR宝塚線(福知山線)最多の利用客数が誇る駅となったが、つい30年前までは改札制限を行うくらい少ない本数の客車列車がのんびりと運行されていた駅だった。
民営化後のJR西日本の輸送改善策は、私鉄王国関西におけるJRの大幅な地位向上をもたらした。
国鉄時代からの眠れる資源の有効活用という点で見事な快進撃であるが、その容赦なき競合私鉄対策は、インフラとしての意味合いもある鉄道の競争と共存のバランスについて考えさせられるものもある。
外側3番のりばに、新三田からの207系普通高槻行きがやってきた。
JR宝塚線内で完結する快速電車は、3扉の快適転換クロスシート車で運行されるが、、、
尼崎からJR東西線に入る快速電車は、同線内にホームドアが設置されている関係で4扉車でしか運行できない。
写真は、321系の京橋から学研都市線に乗り入れる快速・同志社前行き。
当駅で特急こうのとり号との待ち合わせのために本線の3番のりばを明け渡した、1日1本だけ2番のりばから発車する223系丹波路快速・大阪行きと遭遇できた。
えきログちゃんねる
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