古くからの交通の要衝として栄え、阪急発祥の地としても有名な大阪近郊のベッドタウン・池田市の中心駅である、宝塚線の島式1面2線の高架駅で、特急含む全列車停車駅。
阪急最古の駅の一つであるが、開業当時既に猪名川対岸の隣町・川西側に池田駅(現・JR川西池田駅)が存在し、その後約40年間に渡って池田と川西の中心地に「池田駅」が存在するという珍事発生の舞台となった。
かつて存在した池田車庫跡地の再開発を拒否した駅周辺は、ドラマの舞台となったレトロ感が魅力の商店街や、呉服の起源となった服飾関係者の聖地・呉服神社(くれはじんじゃ)、そして市のシンボル・五月山の情景も堪能でき、街と自然が調和した素晴らしい住環境が提供されている。
目次
外観・駅周辺
【五月山方面の駅東口】
阪急の登記上の本店が所在する阪急発祥の地として知られる池田駅。その東口を望む。
駅のすぐ東側は、梅田駅付近から伸びる幹線道路である国道176号が通っている。
その国道176号と高架駅舎に挟まれた開放的な駅前広場。
当駅は阪急最初の路線である宝塚線(当時:箕面有馬電気軌道)開通と同時の1910年(明治43年)に開業した、阪急最古の駅の一つである。
古くからの交通の要衝として発展してきた池田の街は、数多くの落語の舞台ともなった街でもあるらしい。
そこで、2007年(平成19年)に池田市立上方落語資料展示館(落語みゅーじあむ)開館させたことを機に、池田ブランドを構築すべく「落語のまち」としてのPR展開を行っている。
駅北端の池田駅前交差点からは、山の手につながる商店街である「栄町商店街(サカエマチ商店街)」が始まる。
昭和のレトロな香りが魅力のこの栄町商店街は、NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」の舞台ともなった有名な商店街である。
その活気と地域への影響力は、かつて存在した池田駅北側の車庫跡地への阪急百貨店出店計画をひっくり返すほどの大きさを持っている。
その栄町商店街を抜けて山の手方面に向かうと見えてくるのが、阪急の創業者・小林一三の美術品コレクションを展示する逸翁美術館。
長らく付近にある小林一三の旧邸「雅俗山荘」で展示していたものを、展示開始50周年を機に、新たに建設したこの美術館に移設させた。
そして、その池田の街の山の手にひときわ目立つ存在の城郭風の建物。
これは、2000年(平成12年)に開園した池田城跡公園のやぐら風展望台で、かつてこの地を支配していた地方豪族・摂津池田氏の居城跡地を整備した公園である。
上の写真の場所から、北方向を望むと、池田のシンボル的存在である五月山の姿が見える。
その五月山の山麓から中腹にかけては、五月山公園として整備されており、桜・ツツジ・紅葉の名所としても有名な自然豊かな環境が提供されている。
その五月山公園から南の池田市街地方向を望む。ここは池田駅から徒歩15分程度の場所にあり、街と自然が調和した素晴らしい住環境が展開されている。
【呉服神社方面の駅西口】
一方、駅西側から北方向に進むと、、、、
何と阪急宝塚線の高架沿いに、呉服神社(くれはじんじゃ)の一の鳥居が存在する。
池田駅は長らく地上駅であったが、1984年(昭和59年)に高架化されたことで、このような景観が形成されることとなった。
その一の鳥居をくぐってさらに北方向に進むと、呉服神社の参道は斜め左方向に折れる。
この呉服神社周辺は室町と呼ばれ、阪急の創業者・小林一三によって、宝塚線開通と同時の1910年(明治43年)に都心通勤用の郊外分譲住宅地の先駆けと開発された地域である。
その日本初の鉄道会社による分譲住宅街の中に、呉服神社は存在する。
この呉服神社(くれはじんじゃ)のある場所は、太古の昔の応神天皇の時代に、呉服(くれはとり)・穴織(あやはとり)姉妹が住み着き、機織・裁縫の技術を伝えたとされており、呉服(ごふく)の起源ともなっているらしい。
その伝承から、現在でも服飾関係者の信仰を集めており、毎年1月の十日戎には、多くの参拝客でにぎわいを見せるらしい。
現在の拝殿は1969年(昭和44年)に再建立されたものだが、元々は呉服媛(くれはとりのひめ)の死去に接した仁徳天皇が建立したと言われている。
ちなみに、この呉服(くれは)神社は、「西国七福神巡り」の一つである恵美寿神が祀られていることでも知られている。
阪急宝塚線敷設の際に、同線沿線7寺院と阪急電鉄との間で「阪急七福神会」が結成され、大正時代から「沿線七福神集印巡り」が行われている。沿線への愛着を深め鉄道需要を掘り起こすための、創業者・小林一三のアイデアであるらしい。
バスターミナル
バスターミナルは駅東口にある。
「落語のまち」だけでなく、「卓球のまち」でもあるらしい池田。1997年(平成9年)に開催された「なみはや国体」で池田市が卓球の会場となったことをきっかけに、卓球で町おこしの機運が盛り上がったことが発端らしい。
また、池田は日清食品の創業者・安藤百福がチキンラーメンを発明した場所でもあり、インスタントラーメン発祥の地としても知られている。
この「池田」停からは、3つの乗り場から池田市内に路線を張り巡らせる阪急バスの池田市内線が発着している。
バスターミナル南側にあるペデストリアンデッキから北方向を望むと、池田のシンボル五月山の美しい姿を拝むことが出来る。
改札口・コンコース
改札口は2階中央に1か所ある。
1日約52000人が利用する池田駅。一つ梅田寄りの箕面線との乗換駅である石橋駅より3000人ほど多く、池田市の中心駅となっている。
改札内コンコースから改札口方向を望む。かつては東西計4か所の改札口が存在したらしいが、1985年(昭和60年)の駅高架化の際に1か所に集約された。
時刻表
宝塚線:宝塚方面
宝塚方面行きは2つ先の雲雀丘花屋敷止まりの普通と、宝塚行きの急行(ただし宝塚まで各駅に停まる)が10分間隔での運行が基本となっている。
当駅以遠の宝塚線内はすべての電車が各駅に停まるため、種別表記は意味をなしていない。
唯一夕ラッシュ時に20分間隔で運行されている特急日生エクスプレスだけは、次の川西能勢口駅から能勢電に乗り入れて、日生線の終点・日生中央駅まで通過運転を行っている。
宝塚線:大阪梅田方面
一方、梅田方面行きは、宝塚始発の急行の3分後に発車する雲雀丘花屋敷始発の普通が発車しており、十三・梅田まで先着するダイヤとなっている。
また、朝ラッシュ時はほとんどが準急以上の優等となっているのが特徴で、能勢電から乗り入れる特急日生エクスプレスに加え、隣の川西能勢口始発の通勤特急も運行され、普通は箕面線からの乗り入れと日生エクスプレスの通過する豊中始発の電車で補完されている。
乗り場
ホームは島式1面2線の極めてシンプルな構造となっている。
阪急最古の駅の一つとして1910年(明治43年)に開業した池田駅。
駅北側を流れる猪名川の東岸に位置する当駅だが、実は対岸の川西側には既に1893年(明治26年)から池田に無いにも関わらず池田駅を名乗る摂津鉄道の駅(現・JR宝塚線川西池田駅)が存在していた。
その摂津鉄道の池田駅は、その後西の川西の中心地に移転したが、駅名は戦後まで改称されず、池田と川西の中心地に「池田駅」が存在するという珍事が約40年に渡って続いたというトリビアが残されている。
ホーム南端から石橋・梅田方面を望む。カーブの多い宝塚線にしては珍しい見通しの良い直線が、石橋駅手前まで続いている。
全営業列車が停車する宝塚線の中核駅の一つであるため、ホーム幅は広く設定されている。
阪急らしい綺麗なホーム。かつては駅北側に池田車庫が存在したため、日中の一部普通の終着駅となる運行上の境界駅であった。
2号線ホーム側からは、駅東口の風景がガラス越しに堪能できる。
そして、かつて車庫が存在した駅北側方向を望む。当初は池田車庫跡地に阪急百貨店の出店が計画されたが、栄町商店街を中心とした地元の反対によって頓挫し、隣の川西能勢口駅に変更されたという逸話が残されている。
それによって地元の味のある商店街が守られた一方で、商業の中心機能が隣の川西に移り、池田は様々な町おこし策が必要な状況になっていることもまた事実であるようだ。
日中運行される唯一の優等である急行は、豊中まで各駅に停車するが、川西能勢口以南では停車駅がすべて案内される。
1号線に9000系の急行宝塚行きがやってきた。朝ラッシュ時以外に宝塚駅まで向かう列車は急行のみとなっている。
そして、向かいの2号線には6000系の普通梅田行きが入線。始発の雲雀丘花屋敷駅で急行との接続を行っているため、十三・梅田まで先着する。
その両者の並び。宝塚線の日中は、種別に関わらずすべての電車が終点まで先着するというシンプルでわかりやすいダイヤとなっている。
その急行の後にやってきたのは、同じ9000系の普通・雲雀丘花屋敷行き。
かつて当駅北側にあった車庫が、雲雀丘花屋敷駅と山本駅の間にある平井車庫に移設されたため、朝ラッシュ時以外の普通はすべて同駅止まりとなった。
その普通が、次の川西能勢口駅に向けて発車した。
車庫はなくなったが、引上げ線が2本残されており、梅田発当駅終着の普通と宝塚発当駅終着の普通が1日1本ずつ運行されている。
えきログちゃんねる
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