滋賀県の県庁所在地駅・大津駅の一駅東に位置し、初代大津駅(現・京阪浜大津駅)とを結ぶ日本最初のスイッチバック駅として県内最初に開業した、琵琶湖線(東海道本線)の2面4線の地上駅で「ぜぜ」と読む超難読駅。
当初「馬場駅」を名乗ったスイッチバック駅の名残が現在も1番乗り場ホーム北側に坂として残っており、並走する京阪石山坂本線が継承した東海道本線旧ルートと共に、その歴史を感じることが出来る。
また、2代目・大津駅をも名乗る栄華を誇りながら、東海道本線の現ルート開通と共に一時廃止の憂き目に合う波乱万丈の歴史も有しており、大津随一の繁華街にありながら新快速が通過する落ち着いた雰囲気の駅から漂う哀愁感が、たまらない魅力を醸し出している。
外観・駅周辺
JR琵琶湖線と京阪石山坂本線が接続する、関西に数多く存在する超難読駅の一つである膳所駅(ぜぜえき)。その駅北口を望む。
膳所駅では、中距離輸送を担う鉄道線のJRと、地域輸送を担う軌道線の京阪が役割分担を果たしている。
その膳所駅の駅前広場から北方向は「ときめき坂」と呼ばれる下り坂になっており、細い路地が琵琶湖湖岸の大通りに向かって伸びている。
その「ときめき坂」を心ときめかせながら下っていくと、、、
湖岸道路の大通り沿いに現れた西武大津ショッピングセンター。JR高槻駅前に次ぐ西武百貨店の関西2号店として1976年(昭和51年)に出店した滋賀県初の百貨店で、高槻店同様に直営売場ではなく専門店主体となっている。
関東のイメージが強い西武だが、実は創始者の堤康次郎は滋賀県の出身であり、その縁から近江鉄道を戦前から保有するなど、同県とはかなり深い関係にあるのは意外と知られていないかもしれない。
そして、その西武大津店の西向かいには、1996年(平成8年)に大型ファッションビルである大津PARCOが開業している。
PARCOも元々は西武系列であったが、現在は大丸・松坂屋擁するJフロント・リテイリング傘下に入っている。
その西武大津店の3階デッキから膳所駅に繋がるときめき坂方面を望む。膳所駅は新快速が停車しない駅であるが、駅前周辺は両駅を凌ぐ大津市最大級の繁華街が形成されている。
そして、一旦駅前広場まで戻ると、駅東側に長い跨線橋を発見。
JR琵琶湖線で分断された駅の南北を結ぶ長い跨線橋。
現在当駅周辺は再開発計画が進行中で、車も通れる南北連絡道路に加え、駅舎自体も橋上化して現在は存在しない南口を増設するらしい。
その跨線橋の内部。全長110mに及ぶJR京都線・岸辺駅の跨線橋ほどではないものの、まっすぐ伸びた長く開放的な通路が印象的である。
なかなかの年季を感じさせる格子模様の入った窓からは、膳所駅の様子と、、、
膳所駅に入線する電車の様子が、肉眼ではそれなりの綺麗に見ることが出来る。
東海道本線旧ルート
現在は大津の一大繁華街の位置にありながら新快速通過駅の地位に甘んじている膳所駅。
しかし、実は当駅は東海道本線の初代ルートの駅として、新快速停車駅である隣の大津駅・石山駅よりも先に開業した県内最古の駅なのである。
そして、開業当時の東海道本線は、現在の大津・山科ルートではなく、この駅南側を走る国道1号から逢坂山・東山を迂回し、現在は奈良線となっている稲荷ー京都ルートを走行していたのだ。
開業当時の膳所駅は「馬場駅」を名乗り、東から来た線路は、何とここから北西に進路を変え、現在は京阪浜大津駅となっている初代大津駅へ向かっていた。
何を隠そう、実は当駅は日本最初のスイッチバック駅であり、京阪石山坂本線の京阪膳所ー浜大津間は初代・国鉄東海道本線だったのだ。そのスイッチバックの名残が今も坂となって残されている。
その京阪膳所駅を出発する京阪石山坂本線の電車の姿が、JR膳所駅1番のりばホームから見ることが出来る。
この京阪電車が走行しているところが、まさに初代・国鉄東海道本線のルートであった。
当時・東海道本線は関ケ原から米原駅を経由せずに琵琶湖に面する長浜駅に至るルートを通り、大津との間を鉄道ではなく水運で代替しており、港に近い浜大津の地に初代・大津駅が置かれた。これが当駅が日本最初のスイッチバック駅となった理由であった。
膳所駅西側から北西に折れる京阪石山坂本線。
ここから浜大津駅に至るまでの初代国鉄東海道本線のルートは、軌道法によって建設されカーブが多い京阪石山坂本線における数少ない平地の直線区間となっている。
改札口・コンコース
改札口は、北側に駅前広場に1か所ある。
「馬場駅」を名乗った当駅だが、当駅ー関ケ原間の鉄道線が開通した開業から9年後の1889年(明治22年)にスイッチバック駅としての役目を終えることとなった。
それと同時に盲腸線となってしまった当駅ー初代・大津駅(現・京阪浜大津駅)間も旅客営業としての役目を一旦終えることとなったが、そのルートを1913年(大正2年)に軌道線として引き継いだのが現・京阪石山坂本線の前身である大津電気軌道なのである。
その大津電気軌道開業を機に、それまで馬場駅を名乗っていた当駅は、まだ大津市に編入される前であったにも関わらず、2代目・大津駅を名乗り、滋賀の代表駅としての地位にまで上り詰めた。
改札内コンコースからは、現・大津駅の奥にある逢坂山の眺望が堪能できる。
しかし、当駅の絶頂期も長くは続かず、この逢坂山を貫通するトンネルが開通し東海道本線の現ルートが開通した1921年(大正10年)、新ルート上に開業した現・大津駅(3代目)と引き換えに、「馬場駅」に戻されると共に、新・大津駅と近すぎるという理由で何と旅客営業が廃止されてしまったのだ。
時刻表
琵琶湖線:草津・米原方面
当駅は隣の大津駅・石山駅よりも駅周辺に大型商業施設が集積しているにも関わらず、15分に1本の普通のみが停車する駅となっている。
普通は半分が米原行き、残りが途中の野洲止まりとなっているが、野洲駅までは新快速に追い抜かれず普通が先に到着するダイヤとなっている。
琵琶湖線:京都・大阪方面
反対の京都・大阪方面行きも同様に15分に1本の普通(高槻から快速となるため時刻表上は快速色である赤色表記)のみが停車するダイヤとなっている。
乗り場
ホームは島式2面4線の構造。
1番のりばホーム北側には、隣接する京阪膳所駅の姿が見える。
県内最古の駅として開業し、県庁所在地である大津まで冠したにも拘わらず、その直後に廃止の憂き目に会い、駅名改称の上復活を果たした膳所駅。
一旦廃止となり駅名改称の上復活を果たした駅としては近鉄丹波橋駅の例があるが、当駅はそれ以上の波乱を経験していると言えるだろう。
京阪線(当時:大津電気軌道)との接続があったにも関わらず、東海道本線の新ルート切り替えによって一旦廃止の憂き目にあった当駅。
地元の熱心な要望により、廃止から13年後の1934年(昭和9年)に「膳所駅(ぜぜえき)」に改称の上旅客営業復活を果たしたが、その悲運の名残は現在に至るまで新快速通過駅として残ってしまっている。
ホーム西端から大津・京都方面を望む。1921年(大正10年)に開通したこの新ルートが、大津駅を名乗り絶頂期を迎えていた当駅にその後の波乱をもたらすこととなった。
日中時間帯の琵琶湖線は、新快速電車も内側線を爆速で通過していく。
その新快速の後を追ってやってきたのが、223系普通米原行き。
新快速・毎時3本、普通・毎時4本の運行体系である琵琶湖線は、普通も草津を超えて米原まで先着するダイヤとなっている。
向かいの3番のりばには、221系の普通神戸方面加古川行きがやってきた。
高槻から快速運転となる西行きの普通も、米原ー京都間は新快速に追い抜かれないダイヤとなっている。
その普通が次の停車駅の大津に向けて出発。当駅ー大津間は駅間距離は1.7kmと、比較的長い琵琶湖線沿線では珍しく短い。
この短さが現・大津駅開業の際に当駅が一旦廃止されてしまう要因となったようだ。
当駅の利用客数は1日約26000人。
京阪電車との接続駅であり、駅周辺は繁華街が形成されているが、マイカー社会であるためか、隣の新快速停車駅である大津駅・石山駅よりも少なくなっている。
現在当駅は再開発の真っ最中で、かつて存在した貨物待避線を撤去して南側広場の建設工事が進められている。
ホーム東寄りには、さきほどの跨線橋の姿が見える。
そのホーム東端から、石山・草津方面を望む。ここから線路は南にカーブしていく。
そして、今度は内側3番のりばに、225系普通姫路行きが到着した。数奇の歴史を経験した滋賀県最古の駅が、大変貌を遂げる姿が楽しみである。
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