大阪市中部・堺筋と千日前通が交差する日本橋一丁目(通称:日本一)に位置する、難波線(奈良線)の相対式2面2線の地下駅で、大阪地下鉄堺筋線と千日前線との乗換駅。
駅南東にある大阪・浪速の台所・黒門市場では、インバウンド需要取り込みに成功した活気あふれる商店街の雰囲気が堪能でき、また駅北側にある駅名の由来となった日本橋(にっぽんばし)からは、大阪ミナミの繁華街のシンボル・道頓堀の風情が満喫できる。
また、一般的の地下鉄の駅に見られるような上下線ホーム間に柱が一本もない見通しの良さが素晴らしく、シンプルながら魅力の詰まった駅である。
目次
外観・駅周辺
【大阪・浪速の台所・黒門市場】
大阪市の真ん中、南北を走る堺筋と東西を走る千日前通が交差する日本橋1丁目交差点、通称「日本一(にっぽんいち)」交差点。
決して「にほんばし」とは読まない日本橋(にっぽんばし)駅は、この「日本一」交差点の真下にある。
大阪地下鉄堺筋線と千日前線との乗換駅でもある近鉄日本橋駅の入り口は、その「日本一」交差点の四角に点在している。
両駅は別々の駅だが、入り口の標識は大阪地下鉄仕様となっている。
その「日本一」交差点から堺筋を南方向に望む。ここから南に1キロほど下ると大阪の秋葉原・でんでんタウンがある。
「日本橋でんでんタウン」と称されるが、最寄駅は当駅でなく一つ南の恵美須町駅というのは、ちょっとしたトリビアである。
「でんでんタウン」の最寄駅ではない日本橋駅は、鶴橋駅至近の鶴橋市場、そして豊中の阪急宝塚線・庄内駅近くにある豊南市場と並ぶ、大阪・浪速の台所として有名な「黒門市場」の最寄駅である。
こちらは、「日本一」交差点南東角付近の堺筋沿いにある入り口。
1902年(明治35年)に圓明寺市場として開設されたこの市場は、付近にあった「圓明寺」の山門が黒塗りであったことから「黒門市場」と称されるようになったらしい。
一方、こちらは「日本一」交差点を東西に走る千日前通沿いにある入り口。
その「圓明寺」自身は1912年(明治45年)の火災で焼失してしまい、現在は残っていないらしい。
黒門市場は、元々は魚介類を中心としたプロ向けの市場であったが、近年は昨今旺盛な外国人観光客のインバウンド需要取り込みに成功しており、通りを歩く人から日本語がほとんど聞かれない状況だった。
魚介類に強い市場の特徴を活かし、「鮮魚の食べ歩きが出来る巨大フードコート」をコンセプトに様々な施策を打った結果、外国人観光客が殺到する人気スポットへと大転換を遂げたらしい。
まさに、大阪人の商魂が炸裂した成功例である。
【駅名の由来となった道頓堀川に架かる日本橋】
そして、その黒門市場から「日本一」交差点を超えて堺筋を300mほど北上すると、何とそこは大阪ミナミの繁華街のシンボル・道頓堀である。
この道頓堀に3点も店を構える、まさに道頓堀のシンボル的存在である「かに道楽」の北側を流れる道頓堀に架かる橋こそが、駅名の由来となった日本橋(にっぽんばし)である。
その日本橋北詰東にあるこの立派な石像は、安井道頓とその従弟・道卜(どうぼく)の紀功碑。
道頓堀は、江戸時代初期の商人・安井道頓が私財を投じて開削したことを起源とし、道頓の戦死後に道卜が引き継いで完成させた運河であり、その開削者・道頓の功績を後世に伝えるため「道頓堀」と名付けられたらしい。
その日本橋から道頓堀の西方向には、道頓堀の繁華街の中心・なんば方面の様子が伺える。
水の都・大阪の象徴的存在である道頓堀は、かつては橋の上からしか眺めることの出来ない閉ざされた川であったが、2004年(平成16年)に「とんぼりリバーウォーク」と名付けられた遊歩道が整備され、閉鎖空間から開かれた憩いの場へと大変貌を遂げた。
この駅名の由来となった日本橋(にっぽんばし)は、1619年(元和5年)に江戸幕府によってかけられた道頓堀川では唯一の公儀橋(町人ではなく幕府の負担で架けた橋)である。
元々は木造橋であったが、明治時代に鉄橋となり、現在の橋は大阪万博前年の1969年(昭和44年)に架け替えられたものである。
一方、開かれた憩いの場へと大変貌を遂げた橋西側とは打って変わり、東側は北岸に歩道の敷地はあるものの、立入禁止となっており、未だ閉ざされた川のままとなっている。
改札口・コンコース
「日本一」交差点から下った地下1階は、乗入れ3線で最も先に開業した大阪地下鉄堺筋線の2番線ホームに直結した改札口となっており、、、
上の写真の向かい側が、近鉄日本橋駅に繋がる階段となっている。
そして、上の写真の左手から奥の西方向には、千日前通の地下に沿った地下街「なんばウォーク(旧・虹のまち)」が展開され、地下鉄なんば駅、近鉄・阪神大阪難波駅を経由して、JR難波駅付近まで続いている。
近鉄日本橋駅の改札口は、地下鉄堺筋線日本橋駅下の地下2階に存在する。
そして、この近鉄日本橋駅改札口にある地下2階の北側(写真右側)には、壁一つ隔てて、何と近鉄電車と並走する大阪地下鉄千日前線のホームが存在している。
当駅の開業は、難波線開通と同時の1970年(昭和45年)3月15日。
そして、並走する大阪地下鉄千日前線は、そのたった4日前の3月11日。何と大阪難波(なんば)-鶴橋間で2路線が全く同時期に開通しているのだ。
時刻表
奈良線:大阪上本町・大和西大寺・近鉄奈良方面
当駅は公式には難波線の駅だが、奈良線と一体運用されているため、実質的には奈良線の駅となっている。
特急以外の全列車が停車し、日中は快速急行・急行・区間準急が毎時3本ずつと普通が毎時6本の計毎時15本の高密度運転となっている。
快速急行と急行は終点の奈良まで、区間準急と普通の半分は大和西大寺行きとなっている。
難波線:大阪難波・阪神なんば線(尼崎・神戸三宮方面)
2009年(平成21年)より、実に計画から60年の時を経て、隣の大阪難波駅から阪神なんば線への乗り入れを果たした近鉄難波線。
日中毎時15本の列車のうち、快速急行・区間準急・(東花園始発の)普通の3本ずつが阪神なんば線に乗入れ、快速急行は神戸三宮まで、その他は尼崎まで向かう。
乗り場
ホームは相対式2面2線の構造。一般的な地下鉄の駅と異なり、上下線の間に柱がなく、見通しの良い構造となっているのが特徴的だ。
当駅含む近鉄難波線は、大阪市の市営モンロー主義との激しいせめぎ合いの中から生まれた路線なのである。
【1番のりば】奈良線:大阪上本町・大和西大寺・近鉄奈良方面
難波線と一体運用されている奈良線は、近鉄の前身・大阪電気軌道の創業路線であり、1914年(大正3年)の開業から長らくは東隣の大阪上本町駅を起点としていた。
1番のりばにやってきた8000系の奈良行き急行。快速急行に次ぐ優等系統だが、終点まで追い抜かれることなく先着する。
元々市内中心部である難波への乗入れ出願は、開業から10年後の1923年(大正13年)から再三に渡って行われていたが、その度に市営モンロー主義を標榜する大阪市に反対されてきた。
今度の1番のりばは、阪神1000系の東花園行き各駅停車。
しかし、沿線人口の増大によって難波延伸の必要性はさらに増したため、1946年(昭和21年)に阪神と共同で両線を接続する相互乗入れ用の新線を計画したらしい。
1番のりばの阪神車と2番のりばの近鉄車との並び。
2009年(平成21年)より開始された近鉄・阪神の相互乗り入れは、21m級の近鉄車と19m級の阪神車が互いの規格を調整せずに行われている。
次の1番のりばは、シリーズ21・5820系の奈良行き快速急行。
快速急行は、阪神神戸三宮ー近鉄奈良間を結ぶ最速達種別で、大阪難波ー近鉄奈良間を最短35分で結んでいる。
【2番のりば】難波線:大阪難波・阪神なんば線(尼崎・神戸三宮方面)
ホーム西端からは、わずか800mしか離れていない大阪難波駅の様子を伺うことが出来る。
2番のりばに到着した5800系の神戸三宮行き快速急行。
近鉄・阪神の乗入れ新線建設計画に度重なる抵抗を示してきた大阪市は、何と同線に対抗するために難波線と同ルートの建設計画を立てた。それが現在の千日前線である。
今度の2番のりばは、デボ1形復刻塗装が美しい5800系の尼崎行き各駅停車。
その後収拾がつかなくなるほどの激しさを増した両者の対立は、国の仲介によって沈静化を得たが、その結論は近鉄・阪神の新線と地下鉄千日前線の両方共に建設を認めるものだった。
今度の2番のりばの尼崎行き各駅停車は、阪神1000系でやってきた。
その後、1970年(昭和45年)に近鉄難波線と大阪地下鉄千日前線がほぼ同時に開業したが、大阪難波から西側の阪神部分がつながるのは、そこからさらに40年の時を必要とした。
当駅の利用客数は、1日約43000人。
実に終戦直後から60年越しの計画実現となった近鉄・阪神相互乗り入れだが、横槍を入れた地下鉄千日前線を寄せ付けない圧勝となっている。
今度はホーム東端から大阪上本町・奈良方面を望む。ここから、上町台地を登るため、急激な上り坂となっている。
えきログちゃんねる
[近鉄日本橋駅]鳥羽行き近鉄特急通過風景(通過メロディ付き)201604
近鉄特有の通過メロディもいい味が出ています。
[近鉄日本橋駅]奈良行き急行接近放送(英語付き)201604
[近鉄日本橋駅]尼崎行き接近放送(英語付き)201604
[近鉄日本橋駅]大阪難波行き接近放送(英語付き)201604