兵庫県南東部のベッドタウン・川西市の代表駅である阪急・能勢電川西能勢口駅から南に徒歩圏内に位置する、JR宝塚線(福知山線)の2面4線の地上駅。
ホームが県境を跨いでいないにも拘わらず隣街の「池田」を名乗り、川西の中心へ移転後も長らく駅名改称の陳情が通らず、開業から半世紀以上経った後にようやく「川西」を冠することが認められたという、波乱の歴史を有する駅である。
長らく単線・非電化であったため、競合の川西能勢口駅の足元にも及ばない利用状況が続いたが、1980年代からの度重なる輸送改善が奏功し、しがないローカル線の駅から、1日約4万人が利用する都市型近郊路線の快速停車駅へと大変貌を遂げている。
目次
外観・駅周辺
兵庫県川西市の代表駅である阪急・能勢電川西能勢口駅から南に徒歩圏内にあるJR川西池田駅。その北口を望む。
川西市の中心市街地付近にあり、ホームが県境を跨いでもいないにも関わらず、なぜか隣の大阪府池田市の名が冠された不思議な駅名を有している。
しかも、1893年(明治26年)の開業から60年弱は、何と川西にあるにも関わらず川西が冠されない、ただの「池田駅」を名乗っていたというから驚きだ。
上の写真の場所から駅ホーム方向を望む。
当駅が「池田駅」を名乗っていた理由は、実は開業から4年間当駅の場所がここには存在しなかったことによる。
今度は2階ペデストリアンデッキから南東の北伊丹・尼崎方面を望む。
実は、開業当初の「池田駅」の場所は、ここから東に約1キロ離れた大阪府池田市との境となっている猪名川にかかる呉服橋の西詰に存在していた。
駅北口からは、約600m離れた阪急・能勢電川西能勢口駅まで、屋根付きペデストリアンデッキで連絡している。
そして、開業当時川西の地は、その猪名川の対岸にある池田の商圏となっていたことから、川西にあるにも関わらず駅名が「池田」とされたらしい。
かつて貨物取扱施設と機関区のあった駅北口に拡がるバスターミナル。
当初摂津鉄道の終着駅として猪名川西岸に開業した池田駅だが、その4年後に買収された阪鶴鉄道による宝塚方面への路線延伸に伴い、現在地付近に駅が移転された。
しかし、駅が当初から西に1キロも移転したにも関わらず駅名が「池田」のまま残り続けるという事態が何と半世紀以上も続き、川西側の度重なる改称の請願も長らく受理されなかった。
その請願は戦後になってようやく受理されたが、大阪府池田市側が逆に改称反対の陳情を行ったため、間をとって「川西池田」となった。これが駅名の不可思議さの内情である。
駅南側を走る幹線道路・国道176号線付近からアステ川西方向を望むと、駅周辺は立派な阪急村が形成されていることがわかる。
長らく、隣の大阪府池田市の方が商業地として栄えていたが、同市が地元の反対で再開発を拒否したことで、逆転現象が生じている模様だ。
そのアステ川西の核テナントとして1989年(平成元年)に開業した川西阪急。
計画では隣の大阪府池田市にある阪急電車池田車庫跡に出店する予定が、地元商店街の反対により当地に変更されたという異色の経緯を持つが、開業6年で売上倍増という大成功をおさめた。
そのアステ川西の先に君臨する立派な高架駅舎が、川西市の代表駅である阪急・能勢電の川西能勢口駅。
当駅も長らく「川西」を冠することが叶わなかったが、再開発によって今や阪急の中核駅にふさわしい壮大なスケールの駅に大変貌を遂げた。
駅北側から伸びる能勢電妙見線・川西能勢口駅への廃線跡
そして、川西の地にあるもう一つのトリビアが、何と徒歩連絡で可能な当駅と川西能勢口駅間を電車が走っていたという事実だ。
川西池田駅北側を走る国道176号線上にある、JR川西池田駅前交差点付近にその駅は存在した。
当初「池田駅前駅」とした開業し、その後「川西国鉄前」と改称された駅は、何と能勢電妙見線の駅であった。
そこから北に伸びる単線は、阪急宝塚線の高架下をくぐっていた。この道路はその廃線跡であり、1917年(大正6年)から1981年(昭和56年)までの60年あまりに渡って、1両編成の電車が走り続けた。
実はこれは沿線で製造されていた三ツ矢サイダー等の貨物輸送目的で開業した路線であった。
そして、その能勢電の線路は川西能勢口駅の北口まで伸びており、かつては阪急の駅とは別駅であった能勢電の地上駅に繋がっていた。
一時貨物輸送が全収入の5分の1にも達し、経営難で苦しんでいた能勢電を支える役割を果たしていたが、皮肉にもJR宝塚線(福知山線)が電化され劇的な輸送改善が始まった1981年(昭和56年)にその幕を閉じた。
改札口・コンコース
改札口は橋上部分に1か所ある。
当駅を開業させた摂津鉄道を買収した阪鶴鉄道は、1907年(明治40年)に国有化され、当駅は国鉄の駅となった。
1912年(明治45年)に福知山線と称されるようになったが、長らく単線・非電化の時代が続き、利用客数では川西能勢口駅の独り勝ちの状況が続いた。
上の写真の場所から東の北伊丹・尼崎・大阪方面を望む。
その後、1981年(昭和56年)に当駅含む塚口ー宝塚間の電化を皮切りに、その5年後の1986年(昭和61年)には複線化を行い、大幅な輸送改善を図った。
その結果、単線・非電化のローカル色満載の路線であった福知山線は、大阪近郊の通勤路線であるJR宝塚線へと大変貌を遂げた。
それに伴い、当駅の利用客数も急増し、今では1日約4万人が利用する川西能勢口駅に次ぐ、川西の第二の主要駅としての地位を固めている。
今度は、改札内コンコースから駅西方向の中山寺・宝塚・三田方面を望む。
山の斜面に拡がる屈指の高級住宅街である川西市花屋敷と宝塚市雲雀丘の美しい情景が堪能できる。
時刻表
JR宝塚線:宝塚・三田方面
1989年(平成元年)より運行開始した快速停車駅となっている当駅では、快速と普通が緩急接続を行う駅となっている。
通勤電車は、2つ先の宝塚止まりの快速と、篠山口行きの丹波路快速が毎時2本ずつ、新三田行きの普通が毎時4本の計毎時8本の運行体系となっている。
普通は当駅で快速の待ち合わせを行うが、興味深いことに、当駅以遠各駅に停車する宝塚行きの快速も当駅で待ち合わせを行う。
JR宝塚線:大阪・尼崎・北新地方面
反対側の大阪方面行きの日中は、大阪行きの快速電車と、尼崎からJR京都線に入って高槻に向かう普通電車が毎時4本ずつ運行されている。
朝ラッシュ時は尼崎からJR東西線に入る運行が多数加わる。大阪・梅田への速達性では、並走する阪急宝塚線急行が22分に対し、JR快速が17分と輸送改善の効果が発揮されている。
乗り場
ホームは島式2面4線。かつては2線構造の駅だったらしいが、電化・複線化にあたり待避可能な4線構造に改造された。
JR宝塚線仕様の駅票。「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」が黄色のラインカラーに込められているとのこと。
1988年(昭和63年)より使用されたこの愛称は、度重なる輸送改善と共に、長らく後塵を拝していた阪急宝塚線への宣戦布告を意味していた。
【1・2番のりば】JR宝塚線:宝塚・三田方面
ホーム西端から中山寺・宝塚方面を望む。ここから線路は大きくカーブしていく。嵩上げされていないホーム西端部分は進入禁止となっている。
かつて貨物駅や機関区も併設していた広い構内の名残を示すかのような側線も残っている。
待避線の1番のりばに、321系の普通宝塚方面新三田行きが到着した。
そして、その普通が待ち合わせを受ける、225系の丹波路快速篠山口行きが2番のりばにやってきた。
その両社の並び。当駅はJR宝塚線の快速停車駅で唯一緩急接続が可能な駅となっており、昼間はすべて当駅で普通と快速の待ち合わせが行われる。
その丹波路快速が次の停車駅の中山寺駅に向けて発車。丹波路快速は2000年(平成12年)に登場した種別で、日中は30分間隔で運行されている。
再開発によって大変貌を遂げた川西能勢口駅と異なり、当駅南側はのどかな光景が拡がっている。
今度の本線の2番のりばには、223系快速宝塚行きが短い4両編成でやってきた。当駅以遠は終点宝塚まで各駅に停車するが、律儀に待避線の普通が待ち合わせを受けてくれる。
【3・4番のりば】JR宝塚線:尼崎・大阪・北新地方面
今度は、3・4番のりばホーム東端から北伊丹・尼崎方面を望む。こちら方向も線路が大きくカーブしていく。
4番のりばホームからは、川西能勢口駅に繋がるペデストリアンデッキの姿が見える。
大阪方面行きも、日中は当駅で緩急接続が行われ、まず待避線の4番のりばに、207系普通高槻行きが入線した。
JR京都線の高槻ー新三田間の普通の運行は、輸送改善の一環で1997年(平成9年)より運行が開始された系統だ。
それまでの普通はすべて大阪駅発着であったが、同系統の開設で、大阪以東の茨木・高槻方面へも乗り換えなしでの行き来が可能となった。
その普通の待ち合わせを受ける本線3番のりばには、同じく223系の丹波路快速・大阪行きが長い8両編成でやってきた。
当駅から大阪まで17分。対する阪急は川西能勢口から梅田まで急行で22分。度重なる輸送改善の効果が見事に表れている。
今度の3番のりばの快速は宝塚始発の大阪行き。225系の短い4両編成だ。
その快速が次の停車駅の伊丹駅に向けて出発。かつての非電化ローカル線が、都市型近郊路線へと変貌と遂げた姿である。
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[JR宝塚線川西池田駅]丹波路快速篠山口行き接近放送201603
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