地下鉄堺筋線との乗換駅となって大変貌を遂げた天下茶屋駅の一駅南に位置する、南海本線・高野線・汐見橋線の接続駅。
かつて分離して存在していた岸ノ里駅と玉出駅を、1993年(平成5年)の高架化の際に移設統合して開業。
優等は一切止まらない駅だが、ハの字形の独特の駅構造に加え、規模の大きさの割に少ない人気から漂うちょっとした秘境感も魅力的な駅となっている。
また、天下茶屋駅よりも「天下茶屋」の最寄駅であることに加え、西成のパワースポット・天神ノ森天満宮や近くを走る阪堺電車の姿も楽しめる等、意外な穴場的魅力も有している。
目次
外観・駅周辺
駅北側:岸里口方面
萩ノ茶屋ー玉出間高架化に伴い1995年(平成5年)に岸ノ里駅と玉出駅を移設統合して開業された岸里玉出駅。
こちらは、駅北側・旧岸ノ里駅のあった場所に近い岸里口。
そこから東に少し進むと、住宅街の中にひと際際立つ大きなクスノキがあるが、、、
実は、ここが秀吉が堺との往来の途中に立ち寄って茶の湯を楽しんだことで有名な「天下茶屋」跡地。
今では面影がなくなってしまったが、当時は秀吉がこの付近の風景を称賛するほどの美しい景観だったようだが、「天下茶屋」の最寄駅が実は岸里玉出駅であったという発見でもある。
そこからさらに東に進むと、これまた立派なクスノキが茂る荘厳な雰囲気の鳥居が出迎えてくれる。
ここは、「天神ノ森天満宮」と呼ばれる神社。天満宮と呼ばれるからには菅原道真と関係があり、この地は氏が住吉大社への参拝途中に休憩した場所とされており、応永年間(1394年ー1428年)に、「天神さん」の総本社である北野天満宮の分霊を奉斎し、この本殿は1702年(元禄15年)に建設されたものらしい。
本殿向かって右手にある出産安易の霊験があるとされる「子安石」。豊臣秀吉が淀君解任の際に安全祈願に訪れたと言われており、当社は別名・子安天満宮とも呼ばれている。
また、千利休の師である茶道中興の祖・武野紹鴎は、ここから出る涌水に惚れ込み、この天神の森の一隅に茶室を設けたことから、「紹鴎森」とも呼ばれている。
当宮は、近くにある大住吉大社の前に目立たない存在であるが、実はかなりのパワースポットなのだ。
その「天神ノ森天満宮」の真横にあるのが、阪堺線の天神ノ森駅。レトロでディープな阪堺線沿線内では珍しい閑静な場所となっている。
駅南側:玉出口方面
今度は、駅南側・旧玉出駅のあった場所に近い、玉出口。
玉出口出てすぐのところにある、玉出地区のメインストリートである玉出本通商店街。
派手な外装と激安で有名な「スーパー玉出」発祥の地として有名な、下町情緒あふれる商店街だ。
その玉出本通商店街入り口から東に向かうと、、、
紀州街道上に、これまた阪堺線の東玉出電停に出る。恵美須町方面行きは安全地帯すら設置されておらず、スリリング感が味わえる電停として有名である。
改札口・コンコース
駅北側の岸里口に接近してみる。旧岸ノ里駅の前身は、高野線の前身である高野鉄道によって1900年(明治33年)に勝間(こつま)駅として開業された。
その勝間(こつま)駅は、1903年(明治36年)に阿部野駅と改称され、開業から7年間は高野鉄道(現高野線)の駅のみが存在した。
改札口から2階コンコースに上がる。左側が高野線ホームに繋がる連絡通路で、奥が南海線のホームにつながる連絡階段。
そして、高野線への連絡通路と反対側が、汐見橋線(高野線)ホームにつながる連絡階段となっている。
南海線ホームへの連絡階段側から岸里口改札方向を望む。
南海線の駅は、1907年(明治40年)に当時の南海鉄道が玉出駅を先に開業させ、その6年後の1913年(大正2年)に岸ノ里駅を開業させた。
これが高野線ホームへの連絡通路。南海線と高野線ホームは駅北側の両線の分岐点を起点に大きくハの字型になっているため長い。
その高野線への連絡通路の反対側にある汐見橋線の6番線への連絡階段。
南海鉄道と高野鉄道は、1922年(大正11年)に合併し、その3年後の1925年(大正14年)に高野線の阿部野駅が岸ノ里駅に改称された。
時刻表
南海本線・空港線:和歌山市・関西空港方面
優等が一切止まらない駅となっており、なんばー和歌山市間通しの普通車が、日中15分間隔、ラッシュ時は10分間隔で運行されている。
当駅は南海線と高野線との接続駅であるが、優等が止まらずかつ乗り換えに時間を要するため、隣の天下茶屋駅が実質的な両線間の乗換駅となっている。
高野線:高野山・極楽橋方面
高野線も当駅は優等が一切止まらず各駅停車のみの運行となっているが、昼間時間帯は南海線よりも本数が多いのが特徴となっている。
乗り場
【1・2番線】高野線:高野山・なんば方面
当初高野鉄道の勝間(こつま)駅として1900年(明治33年)に最初に開業した高野線ホーム。
高野鉄道を前身とする高野線の公式の路線は汐見橋ー高野線(極楽橋)間であり、1985年(昭和60年)までは汐見橋方面を直通されていた。
それが1985年(昭和60年)に汐見橋線が配線上完全に分断され、高野線の電車は当駅から南海本線に乗り入れて全列車がなんば発着になった。
南海本線を走る特急ラピートの姿が遠くに確認できるくらい、当駅が八の字構造になっていることがわかる。
1番線に到着した6300系各駅停車。河内長野の一つ手前の千代田駅まで向かう。
今度は片開き車6000系の急行三日市町行きが通過。三日市町駅は逆に河内長野駅の一つ先の駅だ。
2番線に掲げられている方面案内板は、なんばではなく、高野線しか止まらない今宮戎・萩ノ茶屋の表記となっている。
岸里口・玉出口両改札口から距離があるため、天下茶屋・新今宮・なんばへは南海線の4番線からの乗車が推奨されているようだ。
その2番線ホーム帝塚山寄りからは、紀州街道の併用軌道上を走る阪堺電車・東玉出電停が見える。
上の写真の場所から目を右に転じると、南海線の岸里玉出駅のホームが見えるが、同じ駅ながらかなりの距離があることがわかる。
そして、左側には、大阪下町の情景のかなたに、高さ日本一のあべのハルカスの姿が見える。
そういう事情から普段はほとんど人のいない2番線ホームを、特急りんかんが通過していく。
高野山開創1200周年を記念してラッピングされた、31000系「黒こうや」で運行されるというラッキーな遭遇だ。
2番線ホーム側から見た南海線・汐見橋線への長い連絡通路。
1日6000人程度の利用客に比して規模の大きな駅のため、人気のない無機質的な空間がちょっとした秘境的雰囲気を醸し出している。
【3・4番線】南海本線・空港線:和歌山市・関西空港・なんば方面
そして、1993年(平成5年)の統合までは岸ノ里駅と玉出駅に分離されていた南海線ホーム。
相対式ホームの高野線に対し、南海線ホームは島式となっている。
優等が一切止まらない駅ながら、その歴史的経緯が形として残る当駅は、意外な穴場となっている。
その南海線ホーム北端から見る、高野線との分岐点。
高野線が南海線なんば方面に乗り入れを開始したのは、両線合併から3年後の1925年(大正14年)のことだ。
今度は南海線ホーム側から見た高野線ホーム。1922年(大正11年)の合併から3年間は、両駅は異なる駅名を名乗っていた。
3番線に、新型車両8000系の普通車・和歌山市行きがやってきた。
南海線は同線のホームの無い今宮戎・萩ノ茶屋には停車しないため、高野線の「各駅停車」と異なり「普通車」と呼ばれる。
ホーム南端から粉浜方面を望む。なんばー当駅間は路線別複々線だったが、当駅から再び南海線のみの複々線が始まるという興味深い廃線となっている。
今度は4番線にやってきた、かつて高野線の大運転で活躍した2000系ズームカー。同運転が大幅減便となったため、現在は南海本線の普通車として活躍している。
なんば方面行きは高野線との分岐点まで南海線単独の複々線が伸びており、通過電車は線路の無い5番線を通過する。
駅北側に汐見橋線用の単式6番線のりばの姿も見える。
4番線の南海線・普通車なんば行きと、6番線の汐見橋線の汐見橋行きとのご対面。
そして、次の4番線の普通車・なんば行きは、新型車両の8000系でやってきた。南海グリーンの時代に比べて随分と印象が変わったものだ。
【6番線】汐見橋線(高野線):汐見橋方面
汐見橋線用の6番線ホームは、駅西側にひっそりと佇んでいる。
汐見橋線用の駅票。現在でも汐見橋線は公式には高野線だが、1985年(昭和60年)の配線変更で当駅ー汐見橋間が高野線とは完全に分断された。
汐見橋線は始発から終電までほぼ30分間隔で運行されている。
南海電車の支線車両の定番2200系・2両編成がひっそりと佇む姿は、何とも言えない哀愁感を漂わせている。
2200系も2000系同様高野線の大運転で活躍したズームカー。ワンマン運転化を目的に改造され、支線のリニューアルに大きく貢献している。
上の写真の場所から車止めと南海線ホーム方向を望む。高野線とは完全に分断されてしまったが、、、、
その代わりに、1995年(平成7年)に高架化の際に、南海線と線路がつながった。
当駅出発後、左に折れる単線の汐見橋線だが、当駅構内を出ると、終点の汐見橋まで複線となる。